『紅の豚』とルカ・モドリッチ 空と海とサッカーについて
『紅の豚』は1992年の夏に公開された。
とてもとても暑い夏だったそうだ。
バブル崩壊の翌年、
『紅の豚』が公開された夏、
ぼくは生まれた。
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『紅の豚』は、地中海を舞台にした映画だ。
登場する島のモデルとなったのは、
今年のワールドカップで話題をさらった、
クロアチアの「ドゥブロヴニク」という美しい島。
通称、「アドリア海の真珠」。
このあまりにも美しい島は、
ユーゴスラビアの崩壊によって、セルビア軍の攻撃を受けた。
1991年。
クロアチアがユーゴスラビアから独立を宣言した年。
サッカークロアチア代表のモドリッチが、
故郷や祖父を失い、
難民ホテルの駐車場でボールを蹴っていた年。
その翌年に、
「アドリア海の真珠」を舞台にした映画『紅の豚』は公開された。
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『紅の豚』は、
空飛ぶ豚と美女が織りなす、
自由と愛の物語である。
かつてイタリア空軍のエースだった、
豚人間のポルコ・ロッソ(イタリア語で「紅の豚」)は、
アドリア海で、海賊ならぬ「空賊」を相手にして賞金稼ぎぐらしをしている。
(ポルコのアジトのモデルになったとされる島。
なんとも悠々自適な豚生活が送れそうだ 笑)
そして時々、
アドリア海に浮かぶ「美しい島」に現れる。
幼馴染みの美女に会いに、
彼女が経営するホテル・アドリアーノを訪れるためだ。
(映画『紅の豚』より。マダム・ジーナ)
彼女は、アドリア海の飛行艇乗りの憧れだ。
飛行艇乗りはみんなジーナに恋をする
そして、ジーナの店では、
空賊も賞金稼ぎもいい子にしている
(普段は敵同士のポルコと空賊たちもジーナの店では喧嘩をしない。
彼女の店の50km以内じゃ仕事をしないという決めごとがあるからだ。)
彼らは自由だ。
それは、
彼らが空と海に憧れ、
空と海が彼らの心を洗うからだ。
飛行艇乗りの連中ほど、気持ちのいい男達はいないって、
おじいちゃんはいつも言ってたわ
それは、海と空の両方が、
奴らの心を洗うからだって
だから、飛行艇乗りは、
船乗りよりも勇敢で、陸の飛行機乗りより
誇り高いんだって
(ポルコの飛行艇の設計士フィオ。
自分が設計した艇を壊そうとする空賊に対して、
飛行艇乗りとしてのプライドを問うシーン。)
だが、時は世界恐慌時代。
第二次世界大戦の足音が迫りつつある時代。
母国イタリアでは、
ファシスト政権が支配を強めようとしていた。
あくまで自由を求め、
政府に与しないポルコは、
母国では立派な犯罪者なのだ。
ポルコには、
反国家非協力罪
密出入国 退廃思想
ハレンチで怠惰な豚でいる罪
ワイセツ物陳列罪
で逮捕状が出されることになっている 笑
そんな中、
老朽化した飛行艇を空賊に大破させられてしまったポルコは、
母国に戻ることを決意する。
(新しい飛行艇の設計をするフィオとポルコ。
いいパイロットの第一条件を聞かれたポルコは、
「インスピレーション」だと答えた。)
だが、
犯罪者であるポルコは、
艇を改造するのも一苦労だ。
(ポルコの居場所が、当局にバレていることを教えるかつての戦友。
親友たちの中で、彼とポルコだけが、先の戦争を生き残った。)
ポルコがそこまでして、自由を貫き通すのは、
戦争で多くの親友を失ったからだ。
ポルコの親友だったジーナの夫も戦争で命を落とした。
ポルコは、
今も自分だけが生き残ったこと悔いて生きているのだ。
(ポルコが戦争中に見た夢。
墜落したはずの飛行艇たちが、空に運ばれていく。
この夢から覚めた後、ポルコは豚になった。)
そんな時代の"はざま"で、
ポルコと空賊は、最後の戦いに向かう。
(ポルコを倒すために自由の国・アメリカからやってきたカーチスくん)
そんなポルコを心配するジーナに向かってポルコが吐いたのが、
かの有名なセリフである。
飛ばねえ豚は、ただの豚だ。
今まで出会った言葉の中で、ぼくが一番好きな言葉だ。
そこには、
愛するものに止められても、
空を飛ぶことしかできない彼の"プライド"のすべてが詰まっている。
(ポルコとカーチスの戦いの賞金にかけられたフィオ)
自由と金と愛をかけた戦いは、
ポルコの勝利に終わる。
だが、劇中では、
ポルコが人間に戻ったのか、
ジーナやフィオとどうなったのか、
飛行艇乗りたちの自由が続くのか、
描かれることはない。
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1992年という時代に『紅の豚』を公開した意味を宮崎駿は明らかにしていはいない。
だが、戦争への憎しみと自由への憧れが描かれているのは事実である。
サッカーに、国境はない。
空と海と同じように。
人口約450万人の小さな国の若者たちが、世界的スターになったように、
今やサッカーは、世界で最も大きな影響力を持つ共通言語だ。
(建国以来初のワールドカップ準優勝に湧く、クロアチア首都のザクレブ)
異なる国の、異なる言語を話す、異なる肌の色をした人々も、
ピッチの上では平等である。
サッカーの神様は、内戦で家族や故郷を失った少年にも微笑む。
モドリッチ少年が、悲しみから救われたように、
サッカーに心を洗われた人々は、世界中にたくさんいるだろう。
ポルコたちが、空と海に心を洗われたように。
だが一方で、サッカーはしばしば政治の道具にされてきた。
スポーツの現場での、ヘイトスピーチや差別が問題視されることもしばしばである。
今、世界の分断は急速に進んでいる。
世界を巻き込んだ2回の大戦争を越えても、人類は進歩していないようにさえ思える。
この分断された世界で、
スポーツは、差別や憎しみから自由でいられるだろうか。
誰かを傷つけるのではなく、誰かを救えるだろうか。
サッカーや他のスポーツを愛する少年少女が、少なくともフィールドの上だけでは、
自由でいられるだろうか。
スポーツをプレイする人も、それを見て楽しむ人も、
ルールの前では平等でいられるだろうか。
次のオリンピックの開催地であるここ東京で、
日本人にとって特別な日を前に、
空と海とサッカーについて想う。