うえにょっき

噺はまくらが一番大事

組織の中での心の自由さとは何か

組織は時として悲劇を起こす。

 

内部にいる人間は、自分や仲間のの居場所を守りたいだけ。そのために、時として、外部から見れば不正や犯罪と呼ばれることに手を染めてしまう。

本人たちは、何も悪いことをしているつもりはないのに。気がつけば、自分たちのトップが犯罪者として扱われ、眩いフラッシュの中、こうべを垂れる。

 

近年、日本を代表する組織・大企業によくある一幕だ。

これが悲劇でなくてなんだろう。

 

 

なぜ、彼らは、不正に手を染めてしまうのか。

それは、自分のいる組織やコミュニティを絶対視してしまうからだ。

 

 

日本人の多くは、未だに、年功序列・終身雇用の世界で生きている。

 

彼らは、自社の外の世界を知らない。

出世競争を勝ち抜き、1つの組織の中で自分の地位を高めることにしか視線が向かない。

当然、組織の中の人間関係を絶対視してしまう。

 

 

上司や仲間に、組織を守るために、悪事を働くことを強制された時に、

「それはできません。社会のためにはならないからです。どうしてもというなら私は辞めます。」と堂々と言えるかどうか。

自分が所属するコミュニティをいくつかもっていない人は、自分の居場所を守るために、当然そんなことは言えない。

 

 

 

心の自由さは、自分の居場所を相対化できる者のみが持つことができる。

 

 

例えば、子どもにとっては親がすべて。

親が絶対ではない、ただの1人の人間だと知った時、ぼくらは大人になることができる。

何らかの理由で、家庭を相対化できない子どもたち、自分の居場所をいつまでも家の外に持たない子どもたちは、不幸だ。

 

 

大人になってもこれは同じで、自分の組織以外に自分の居場所を見つけられない大人は、いざという時に、組織のルールを絶対視してしまう。

 

今までは、それは簡単なことではなかった。

なぜなら、上の言葉には続きがあって、

「それはできません。社会のためにはならないからです。どうしてもというなら私は辞めます。私の市場価値を毀損するだけですので。悪事に手を染めなければ、私はどこへ行っても稼げます。」と、言えなければならなかったからである。

 

 

もちろん今でも、それは難しいことだ。

我々は、価値を生み出さなければ食ってはいけない。

そのためには、当然能力がなければいけない。

並大抵の努力では、組織の後ろ盾を得ずに価値を創造できる人間にはなれない。

 

 

だが、緩やかに、状況は変わりつつあるように感じる。

自分が面白いと思っていることをして、面白い人たちに囲まれていれば、きっとそこに何かしらの価値創造が起こる。

今は何もできない人も、自分の好きなことをしていれば、きっとどこかの誰かの役に立てる。

そんな時代が来ているように感じる。

 

それがきっとインターネットの力だし、そういう生き方を実践している人たちは実際に生まれて来ている。

 

 

遊んでいるだけで価値を生める、面白い人たちの集まりを誰もが持てたら。

そうすれば、心は自由になり、組織の仕事でも本当に大事なこと、本質的に価値のあることに、こだわることができるのではないか。

だから、ぼくはこれらのコミュニティのあり方に注目しているし、自分たちで作っていきたいと思っている。