うえにょっき

噺はまくらが一番大事

僕がブログを書く理由

ある日僕は衝撃を受けた。

(確か1950年頃の)古い論文を読んでいるときにこんな記述を見つけたからだ。

…P value (Fisher, 1936)……

 

詳細はさて置き、P value(P値)とは、ある科学的操作を行ったことが、実際に効果を及ぼすのか(この肥料を与えた植物は与えなかった植物と比較して大きく育つのか、など)を統計的に判断するための指標である。

現在では、P値を論文中で使用するときに、P値の有用性を示した近代統計学の父Ronald A. Fisherの元論文を引用する科学者はまずいない。

なぜなら、誰でも知っているからだ。

 

では、なぜ僕が読んだ論文は、P値にきちんと引用を書いていたのだろう。

そう、1950年当時はまだ、P値は「常識」ではなかったからだ。

 

 

今「当たり前」のことも、「当たり前」ではない時代があった。

そんな当然のことに僕は衝撃を受けた。

きっと、今日最先端のことも、いつかは「当たり前」になる日が来るのだろう。

それどころか、今この瞬間には誰か1人の頭の中にしかないことが、将来「当たり前」になっているかもしれない。

そうやって人類は進歩してきたのだ。

 

ちなみに、P値も今や批判に晒されている。

P値は、有用な統計的基準として科学界に長らく君臨してきた。

しかし、科学者たちは、P値では、必ずしも科学的真実に近づけないことに気がつき、P値偏重の時代に別れを告げようとしつつある。

P値の時代もいつか終わるのだ。必ず。

そして、また新たな智が生まれる。

 

 

大袈裟かもしれないが、僕はそんな人類の叡智の積み重ねに打ちのめされた。

スゴイぞ、人類!凄すぎるぞ!!!!

 

 

そんな考えに夢中になっていて、僕はふと閃いた。

 

「おれが日頃考えていることも、記録しなければ。」

 

どんな知識も、表現し、記録されなければ消えて無くなってしまう。

僕が考えた下らないあんなことやこんなことも、記録されなければ僕が死んだらなかったことになってしまうのだ。

 

 

僕は、決して面白い人間でも、人に伝えるべき独創的な思想を持った人間でもない。

だが、そんなことは本質的には関係ない。

 

なぜなら、僕のこの世界、すなわち僕の人生を含む森羅万象に対する解釈は、僕がいなかったら絶対に存在しなかったものだからだ。

この世界に、僕と同じように生まれ、飯を食い、クソをして、学び、考え、悩み、苦しみ、喜び、楽しんできた人間は誰1人としていない。

すなわち、僕と全く同じように考える人間など絶対に存在し得ない。

 

 

 

さらに、智は、批判可能な開かれたものとして表現されなければならない。

なぜなら、僕が表現したことが、僕自身、あるいは他の誰かに否定される、そして僕はまた新たなことを考えて表現する、それもまた誰かに否定される………、そんな対話的運動の中にしか僕らが求める「真理」は存在しないからだ。

それは、僕自身が、あるいは人類がこれまで行ってきたことに他ならない。

僕のクソみたいな思想も、人々の生活の役に立つ科学も、その点において本質的には何も変わらない。

 

 

 

 

人は誰しも、その人だけのあり方で世界に語りかけられる。

あなたは、一瞬一瞬、世界から個人的な「メッセージ」を受け取っている。

そして、その「メッセージ」に対するあなたの解釈は、次の瞬間には世界によって否定される。

世界は、あなたに解釈を求めつつ、一義的な定義を否定するものとしてそこに存在しているからだ。

あなたは生まれたその瞬間から、その対話的な関係に放り込まれたのである。

その運動の中で、あなたは、自分の世界理解をついうっかり語ってしまう。

それが誰にでも通用する、絶対的な真理などではないことを知りながら。

そして、人々の唯一無二の解釈の数々が、固有な相として、この世界の豊かなカタチを成す。

世界は、互いに他を否定し合う無数の解釈の対話的運動の中にのみ存在している。

 

 

 

 

世界は僕に呼びかける。

僕は世界の声を聞く。

僕は、世界から「そこの、君。ちょっとこっちへいらっしゃい」という個人的召喚を受けてこの世界に生まれてきた。

そういえば、ママのお腹の中でそんな声を聞いた気がする。(純度100%の大ウソだ 笑)

 

世界は、僕の眼前に圧倒的な謎を突きつけ、考え、解釈することを要求する。

絶望的なまでに恐ろしく、邪悪なまでに甘美なこの「他者」を前に、僕は泣き叫び逃げ出したくなる。

この「他者」を知ることなど、僕には決してできない。

たが、僕と、僕自身を含むこの「他者」との対話が終わることはない。

僕は、この世界に対する唯一無二の解釈を施す者として、この世界に「呼び止められた」のだから。