『街場の現代思想』感想
冬は、「ウチダ」の季節だと思っている。
内田樹の思想は、鋭くも温かい。
冷たい風が吹き向ける季節に現れた焚き火のようだ。
この本の中でも特、に冒頭の章の「文化資本主義の時代」への考察は非常に鋭い。
ウチダは、日本が「文化資本」によって階層化された社会になること憂いている。
日本社会はどんどん「文化資本」によって階層化されているらしい。(ここでは、それは認めてしまおう。)
『街場の現代思想』の第一章『文化資本主義の時代』では、
「文化資本」によって階層化された社会の出現を阻むための戦略が論じられている。
まず、文化資本とは何か。
文化資本とは、「家庭」において獲得された趣味や教養やマナーと、「学校」において学習して獲得された知識、技能、感性の二種類がある。(p.22)
前者は、育つ過程で勝手に「身についてしまっていた」という意味で、これは「身体化された文化資本」と呼ばれる。
あえて言わずともお分かりだろうが、限られた階層に生まれ育った人にしか「身体化された文化資本」を手に入れることはできない。
いわゆる「お育ちのいい人」だけが「文化資本」を身体化できる。
これが、文化資本の格差である。
文化資本が「気がついたら、身についていなかった」人は、もう「身体化された文化資本」を身につけることはできない。
なぜなら、「生まれつきの文化貴族」になるために努力する行動そのものが、「ビンボうくさ」く「不純」だからだ。
そんな風に必死になって文化資本を身につけたものは、「生まれつきの文化貴族」が持つ余裕を持つことができない。
余裕のない「文化資本」は、身体かされているとはとても言えない。
ここに文化資本の逆説がうまれる。
「文化資本を獲得するために努力する」という身振りそのものが、文化資本の遍在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまう。(p.34)
すなわち、「努力したら負け」というルールが既に闘いの中に構造化されているのである。
このように「文化資本」によって階層化された社会は、固定化された社会だ。
年収や学歴(ある程度文化資本力と相関はあるが)によって階層化された社会よりも遥かに逆転が起こりにくく、流動性が低い。
果たして「文化資本」によって階層化された社会は心地がよいだろうか。
よいわけがないというのが第一章『文化資本主義の時代』の問題意識だ。
内田は続ける。
そもそも、文化を「資本」と位置づける人間はすでに中流であると。
文化を「資本」として、社会で使えるものと定義することがすでに嫌らしい。
中流は、ただ卑しいだけではない。
「文化貴族」になりたくてもなれない中流が何をするか。
自分たちほどに文化資本を獲得できなかった人間を見下す。
それと同時に、自分より下の人間たちを足蹴にし、排除することで自身の相対的上位を固定的に確保しようと望む。
この世で一番始末に終えないのは、「上昇志向があって、それが満たされない人間」である。(p.40)
このように、中流は、上流になろうと努力する点で運動的であり、
同時に、下流を下流に押しとどめようとする点で停滞的である。
しかし、ウチダは、中流 = プチ文化資本家に日本人みながなることを望んでいるのだ。
それがウチダの「一億総プチ文化資本家」戦略である。
なぜなら、逆説的にそれが文化資本による階層社会の出現を先送りすることに繋がるからだ。
(いつだってウチダ論は逆説に溢れている。)
順序はこうだ。
日本は明らかに文化資本によって階層化された社会になりつつある。
そのことに自身で気がつく、あるいはウチダらに気づかされるものがいる。
彼らは、文化の価値を(初めは資本として)評価し、文化資本を手に入れようと必死で努力する。
そして、決して自分が「文化貴族」になれないことに気がつき、自分より下のものを見下す。
と、同時に、自分より下の人間たちを排除し、自身の相対的上位を固定化しようとする。
中流の出現によって、社会は、上・中・下流に階層化し固定される。
だが、話はここで終わらない。
彼ら中流は、文化資本を獲得することで、文化資本の差で人を見下すことがいかに醜いかに気がつく。
文化資本を手に入れることで「文化を資本として利用しようとする発想そのもの」の浅はかさに気がつく。
それが文化・教養だからだ。
教養の多寡によって人を見下すというさもしいまねは、己の教養によって邪魔される。
「プチ文化資本家」は、文化資本によって階層化されたさもしい社会を憎む。
結果的に、日本人がみな中流 = 「プチ文化資本家」になれば、文化資本による階層社会の出現を先送りすることができる。
これは、文化が持つ特長によるものだと言える。
一方で、文化資本によって完全に階層化された社会ではこうはいかない。
下流は文化にアクセスする手段を持たない。
さらにいえば、教養がないために、下流は、自分が階層社会の下流にいることに気がつかない。
上流は、下流は見下しもしないし、そもそも下流の存在にすら気がついかない。
ウチダが恐れるのは、この状態である。
ウチダが文化資本によって階層化された社会の危険性を唱えるのは、日本人をみな「プチ文化資本家」にするためである。
人々を煽り、中流へと急がせることで、結果的に文化資本による階層社会の出現を妨げることができるからだ。
これが、「一億総プチ文化資本家」戦略の真の戦略的意味である。
私たちは、気がつけば内田の術中にハマっている。
(ウチダ流にいうなら、先回りされている。)
これが、内田樹のテキスト戦略である。
私が、ウチダを尊敬するのはこの巧みさゆえだ。