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『中国の論理』感想

 

中国の論理 - 歴史から解き明かす (中公新書)

中国の論理 - 歴史から解き明かす (中公新書)

 

 

副題の通り、中国の人の考え方を、歴史的経緯から捉えた良書である。

古代から現代まで、その時代時代ごとの「中国の論理」を解き明かし、「中国の歴史」と「中国の論理」の相互作用を丁寧に追っていく。

 

 

特に、近代、清朝の崩壊から革命の時代への変遷に関する記述が面白かった。

圧巻だったのは、

二十世紀初頭の「言論界の寵児」にのし上がった梁啓超が、日本亡命後に「思想が一変した」と述べている部分の解説だ。

 

 

梁啓超の師は、日清戦争後、政治制度の西洋化「戊戌の変法」を企てた康有為である。

「戊戌の変法」の運動の中で、梁も康も、保守派による「戊戌の政変」で、日本への亡命を余儀なくされる。

この政変を主導したのは、悪名高き西太后・袁世凱らである。

 

しかし、梁啓超の日本への亡命が、のちの中国の命運を大きく変えることになる。

この経験が、梁啓超を中国最初にして最大のジャーナリストへと変貌させるからだ。

 

 

 

梁啓超は自伝で、

戊戌九月、日本にやって来た。東京で一年間住み、少し日本語が読めるようになったことで、思想が一変した。

と述べている。

「日本」だけではなく、「日本語」だった点が重要だ。

 

 

当時は日本も「文明開化」「明治維新」の時代。

日本はいわゆる「文明開化」によって、おびただしい翻訳漢語・和製英語をつくった。(p.164)

 

そうした訳業の中から、「文明開化」の日本語ができあがってゆく。(p.165)

 

「文明開化」の日本語の文体を手に入れた梁啓超は、その文体を漢語に応用していく。

この清新でニュートラルな文体が駆使しされた梁啓超の文章が、当時の中国の知識人の思想をも一変させることになるのだ。

 

 

今の日本人にはイメージがしづらいだろう。

だが、梁啓超が活躍するまでは、中国で「文章が美しい」といえば、古典に依拠しなければならなかった。

すなわち、二十世紀までの漢語は、語彙・概念、文体・論理すべてが古典によってがんじがらめにされていた。

戊戌の変法も所詮、西洋風の改革に儒教の教えを強引に合わせて、改革を正当化するものだった。

いわば当時の儒教至上主義の中国人に無理がないように、改革の論理をこじつけるしかなかったのだ。

これが二十世紀までの「中国の論理」である。

この「中国の論理」では、西洋の考え方を、直接理解することはかなわない。

ここにそれまでの中国の改革の限界があった。

 

 

 

梁啓超の「新しい文体」を手に入れたことで、中国の知識人たちは、

「外夷」のカテゴリーに押し込まれた西洋の事物は、そんな尊卑・褒貶の拘束から解き放たれて、言語上の直訳と知識上の直輸入が可能となり、漢語で直截に表現、伝達、了解できるようになった。

梁啓超の「新しい文体」が、国内で熱狂をもって迎えられたことで、以後中国は革命の時代へと突入していくことになのだ。

 

 

 

このようにして革命の時代を経た中国が、今の「中華思想」をどのように取り戻すのかは、読んでみてのお楽しみである。笑

 

 

 

以下、感想

この記述を読んで、かなり衝撃を受けた。

文体がそこまで思想に影響を与えるとは考えても見なかったからだ。

確かに、私も日本語を駆使する日本人である以上、日本語の文体に規定された思考をしているはずである。

話し方・書き方は、論理の展開の仕方と密接に関わっている。

すなわち、日本語で美しいとされる話し方・書き方によって、私たち日本人の論理展開の仕方は制限されているに違いない。

そんなことは薄々分かっていたつもりだった。

しかし、そこまで、大きな影響を持つものだとは思ってもみなかった。

 

異なる言語を話す集団間では、そもそも思考の進め方、頭の使い方が根本的に違うかもしれないということである。

文体は文化に影響をうけ、かつ、文体は文化にも影響を与えるものなのか。

他国語が話せても、その国の人の思考を完全には理解できないことの一因はここにもあるかもしれない。

言語を操るとはどういうことか、他文化理解とはどういうことか深く考えさせられた。