古今亭志ん朝 落語界のプリンス
歴史上最も偉大な落語家は誰かと聞かれたら、
ぼくは迷わず故・古今亭志ん朝だと答えるだろう。
古今亭志ん朝。本名美濃部強次。
その芸風は、華麗にして優美。
それでいて、素朴で端正。
小気味良いリズムで流麗に駆り出される噺には、一切の無駄がない。
立川談志をして、
「もし金を払って他人の芸を聞くとしたら、寄席芸では志ん朝しかいない」
とまで言わしめた孤高の天才落語家、古今亭志ん朝。
今回は、そんな男の素顔に迫ってみたい。
古今亭志ん朝は、1938年に、
戦後最大の落語家の1人と称された古今亭志ん生の次男として生まれた。
兄は金原亭馬生(中尾彬の妻・池波志乃の父)。
正真正銘の落語界のプリンスである。
(向かって左から、兄・馬生、父・志ん生、志ん朝)
(落語の歴史:広がる口演の場|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー)
その才能は、若い頃からずば抜けており、
父・古今亭志ん生に入門してから、5年後の25歳の時には36人抜きという異例のスピードで真打に昇進している。
前座から二ツ目を経て、真打になるには、普通なら10年はかかる。
先輩後輩、兄弟弟子という上下関係を重んじる芸の世界で、志ん朝の真打ち昇進はまさに"事件"だった。
この時抜かれた"先輩"たちの中には、立川談志や5代目三遊亭圓楽(今の6代目円楽の師匠)がいる。
落語界を震撼させたこの"事件"が、当時の若手落語家たちを奮起させ、昭和後期の落語黄金時代を作り上げたとさえ言われている。
彼らの世代の活躍によって、落語やお笑いは劇場を飛び出してテレビで見るものになった。
だが、志ん朝は噺家になりたくてなったわけではなかった。
父・志ん生に強く説得されて仕方なく噺家になったようだ。
そのことを、志ん朝自身も自虐ネタにしている。
例えば、子別れ・下のまくらでは、
だいたいこの噺家になるというのは、昔から道楽者という風に相場が決まっていたそうですな。
まあ、近頃はそうとは限りませんで、
親が噺家だからしょうがないからなっちゃったとか、
あるいは、大学を卒業して、普通の会社に勤めるのは面白くないから、じゃあ噺家にでもなろうなんという、そういうような噺家が多くなりまして……
伝説と謳われた古今亭志ん生を持ったプレッシャーもあったのだろう。
本人も複雑な気持ちを抱えていたに違いない。
父・志ん生は、まさに道楽者、破天荒で知られた落語家だった。
酔っ払って高座に上がる、噺の途中で突然居眠りを始める、などなど、
逸話をあげれば枚挙に暇がない。
それでも、客は大悦びし、そんな志ん生を見たくて寄席に詰めかけたという。
アニメ・昭和元禄落語心中の2代目助六のモデルになった1人だと言われているように、あまりの素行の悪さに何度も落語家を辞めさせられかけている。
(遊びすぎて八雲に怒られる2代目助六。彼は後に師匠と対立して破門されることになる。)
若い頃は全く金がなかった志ん生だが、それでも道楽をやめられず、
女房の着物を全部質入れして酒を飲んだ、
借金取りから逃げるために十数回も改名した
などというエピソードも残っている。
だが、落語をやめて失意のままに死んでいった2代目助六とは違い、
志ん生は何度身を崩しても蘇り、落語の神様になった。
2017年にNHKのアナザーストーリーで放送された古今亭志ん朝特集では、
志ん朝が父・志ん生を語った貴重な映像が紹介されている。
(非常に面白いので、是非全部見て欲しい。インタビューは48:30ぐらいから)
自分は、父のようにはなれない。
父とは違う芸を。
若き日の志ん朝は、父と並び評された昭和の大名人・8代目桂文楽に傾倒した。
黒門町(文楽)と日暮里(志ん生)は、まさに戦後落語界の両雄。
(落語界では、大師匠を住んでる場所で呼ぶ。志ん朝は矢来町。
人を指す時に方向や場所で呼ぶのは、日本語独特の発想だろう。
例えば、天皇を指す御門や陛下も場所の名前。)
文楽はまさに完璧主義者。
志ん生のようなその場限りの芸ではなく、細部までこだわり緻密に作り込まれた話芸が文楽の特徴だった。
文楽の完璧主義は、落語家の中では今でも語り草だ。
晩年、セリフを忘れてしまって高座を途中で降りた文楽は、その後2度と高座に上がることはなかった。
志ん朝は、父からはほとんど落語を学ぶことはなかったようだ。
志ん生本人に「他所で勝手に勉強しろ」と言われたらしい。
その言葉通り、志ん朝は文楽のように細部までこだわり抜いた話芸を身に付けて行く。
それが、落語ファンから志ん朝が正統派、王道と呼ばれる所以だ。
だが、志ん朝は、大師匠の真似をするだけでは終わらなかった。
なんといっても、志ん朝の話芸の特長の1つに、そのテンポとキレのよさがある。
聴くものに圧倒的な爽快感と高揚感を与える。
唄うようなリズムで、侍がズバッズバッと次々に敵を切り倒すように高速で噺が進む。
今の落語や漫才に引き継がれるしゃべくり話芸の原点である。
(音声だけ。テンポが良いことで有名な噺その1「たがや」)
(音声だけ。テンポが良いことで有名な噺その2「大工調べ」。The 江戸っ子の啖呵。)
話すのが早いことが、テンポがいいことではもちろんない。
志ん朝の落語には、俳句や水墨画のような、侘び寂びの美学が光っている。
声の調子・抑揚、言葉のつなぎ方から間の取り方まで、
全くのムダがなく、その全てが美しい。
志ん朝の落語は、日本語とはかくも美しいものなのかと感じさせてくれる。
志ん朝が高座に上がると、そこには江戸の風が吹く。
町人を演じれば江戸の町の喧騒が聞こえ、魚屋を演じれば浜の潮風の匂いがする。
緻密さ、繊細さ、侘び寂び、酔狂、豪胆さ、
それらすべてが絶妙なバランスで1人の人間の中で合体した奇跡、
それが3代目古今亭志ん朝だった。
彼の影響力はまさに絶大だ。
終生のライバル・立川談志は、志ん朝にできない落語をするために、あの破天荒で型破りなスタイルを身につけたのだと言われる。
談志の落語は映画的だ。
今のシーンが気に入らないからと言って、突然巻き戻して別のカットを入れて再開したり、シーンごとに全く別の演目が混ざったりする。
正統派で頂点を極めた志ん朝がいたからこそ、
当時の天才たちは、自分だけのスタイルを模索し、作り上げることができたのだろう。
早い話が、噺の単純な上手さでは志ん朝には勝てないと諦めたのだ。
その意味で、志ん朝は百鬼夜行の落語戦国時代を作ったとさえ、ぼくは思っている。
立川談志は、志ん朝が亡くなったときにこんな言葉を残した。
綺麗な芸を残して見事に死んだ。結構でしたよ。
古今亭志ん朝、本名、美濃部強次。
芸人・談志は、志ん朝の完璧なバランスがいかに脆く、移ろいやすいものなのかを知っていたのだろう。
老いれば、バランスは崩れる。
どんな天才も、作り上げたバランスを保ち続けることはできない。
道を極めたものは、いずれ自分の技を見失い、道を踏み外すのが世の常だ。
それでもぼくは、老いた志ん朝を見たかった。
老いてくたびれた志ん朝はまたいい味を出してくれたと思うからだ。
志ん朝の死の数ヶ月前、談志は、志ん朝に志ん生を襲名することを納得させている。
志ん生の死後、志ん生を継げと周囲に何度言われても、
志ん朝は頑として首を縦には振らなかったのだという。
だが、最後には談志に説得され、志ん生を襲名することを決意をしたのだ。
結果的に、
6代目古今亭志ん生は誕生することはなかったが、
談志も老いた志ん朝が到達する高みを見たかったのに違いない。
談志は談志らしい言葉で、志ん朝の死を悼んだのだ。
志ん朝の芸は、"芸術"だとよく言われる。
そして、志ん朝は"芸人"の中の芸人でもあった。
父・志ん生やライバル・談志の芸と同じように、
志ん朝の芸も志ん朝にしかできないものだった。
芸は一代。
芸人は、自分だけの芸を。