いい人ほどマウントを取られがちであるという不都合な真実
とても中立的でいい人というのがいる。
ぼくは、彼or彼女が大好きだ。
ぼくのような、バカみたいに偏った人間ばかりでは、会話が成り立たない。
彼らのおかげで、今日も世界は平和なのである。
そんな彼らが、世の中に対して、ある「共通の苦情」を述べるのを見て、ぼくはとても悲しい気持ちになる。
その苦情とはこうだ。
「すごく見下してくる人がいるんだけど……。私なにか悪いことしたのかな?」
それはあかんで。
ぼくの心の癒し、中立お兄さんorお姉さんが困っている!
なんとかお助けしなければ!!
だが、よくよく考えてみると、
ぼくには見下された経験があまりない。
経験はあるのかもしれないが、あまり記憶にない。
ぼくが誰よりも優れた人間だから?
おれ様は神なのか?
まさかそんなことはない。
ぼくの周りには、ぼくより優れた人間なんて掃いて捨てるほどたくさんいる。ちりやほこりのようにたくさん。
そこで、ぼくと中立お兄さんorお姉さんの経験の差の理由を解明すれば、彼らを助けることができるかもしれないと考えた。
そして、悲しい真実に気がついてしまったのだ。
彼らを救うことは、決してできないのである。
なぜなら、彼らは、
中立的であるがゆえに、見下される、
逆に言えば、
見下されないと言うことは、中立的ではない
という「構造」に囚われているからだ。
どういうことか。
詳しく説明する前に、中立的でないぼくが、マウントを取られない理由を説明した方がわかりやすいだろう。
ぼくは、ある集団に属するとき、必ずその集団の中では唯一で、かつ自分の好きなポジションを取る。
いつからなのかは分からない。気づいた時にはそうだった。
その結果何が起こるか。
ぼくは、誰かと比較をされにくいのである。
なぜなら、ぼくは、その集団の誰とも違う土俵で戦っているのだから。
比較されて、ディスられているのかもしれないが、ぼくにとってそれは、見当はずれもいいところだ。
だって、その土俵の上にぼくはいないのだから。
ぼくをディスる彼らを見て、ぼくは、
「おっ、いいツッパリしてるやんけ。あの土俵で戦ったら負けてたなー」
と思うだけだ。
マウントを取られたということを気にしていないから、覚えてすらいない。
逆に、中立お兄さんorお姉さんどうか。
彼らは、中立的であるがゆえに、誰とでも比較対象になり得る。
そして、どれだけ卓越した能力を持った中立マンでも、ありとあらゆる能力で全ての人に勝つことはできない。
人と人はいつも比べあっているので、
ある一定の確率で、中立的なAくんが、マウントおじさんBくんに劣っている能力にフォーカスが当たる。
そして、さらに一定の確率で、その能力のためにマウントに晒されることになる。
そこまで悪意はなくとも、「あなたのためを思って」という免罪符の元に、説教されたり諭されたりする。
中立的な人間という善良な市民は、その度にバカ真面目に傷ついたり、反省をしている。
でも、彼らがどれだけ努力をしても、彼らが比較→ディスり地獄から逃れることはできない。
なぜなら、彼らは自ら進んで、ポジションを取らない=万人と比較されるというポジションを選んでいるからだ。
ぼくは、とても弱い人間だ。
誰とも比較なんてされたくない。
ぼくは、ぼくの価値観の中で、自分を世界一の天才だと思って生きていたい。
(極論を言うなれば、だぞっ笑)
いつからかは覚えていないが、
ぼくは、比較を避け、精神的な安定を手に入れるため、ポジションを取ることを本能的に身につけたのに違いない。
ぼくは別に、みんながポジションを取るべきだとか、自分の考えを押し付けようとしているわけではない。
それは困る。
ぼくは中立的な人々を見るたびに、いい人だなーと思って癒されているのだから。
世界平和は、ぼくのような人間の肩にではなく、彼らのような善良な市民の肩にかかっている。
だから、中立お兄さんとお姉さんには、これからもイバラの道を生きて欲しいと切に願っている。
ぼくの仕事は、彼らにエールを送り続けることである。