うえにょっき

噺はまくらが一番大事

私家版:私たちが教養を身につけなければならない理由

巷では、教養の重要さが叫ばれている。

これからの時代、ビジネスマンも教養がないと生きていけないそうだ。

 

 

だが、親も、学校の先生も、ぼくが勉強しなければならない理由を教えてはくれなかった。

教えてはくれたかもしれないが、ぼくが納得できるものは一つもなかった。

 

 

ぼくが自分で考えた、「私たちが教養を身につけなければならない理由」は、単純だ。

 

 

 

「文化や思想が、1人の特別な天才によって形作られたのではないことを理解するため。」

 

 

 

 

教養を身につければ、

人間1人では、偉大なことを成し遂げることなど、決してできないことを学ぶことができる。

誰かに良い影響を与え、良い影響を与えられなければ、素晴らしいものを作ることは絶対にできはしないことを、ぼくらは知る。

 

 

 

歴史や文化を学ぶことは、

どんな天才も、決して1人で天才になれたわけではないことを、ぼくらに教えてくれる。

 

ニュートンは、自分が偉大な発見ができた理由を、

私が彼方を見渡せたのだとしたら、それはひとえに、巨人(先人たち)の肩に乗っていたからだ。

と表現した。

イチローも、1人で素振りをし続けて、世界最高の野球選手になれたわけではない。

 

 

 

どんな思想や文化も、それまでの歴史の流れとは関係なく、1人の天才の頭の中から突然生まれたものではない。

 

マルクスが『資本論』を書けたのは、資本主義が生まれたからだ。

印象派が生まれたのも、それまでの天才たちが、写実主義やロマン主義を育んだからだ。

人々が狼煙で意思疎通を図っていた時代に、iPhoneは生まれたわけではない。

 

 

 

何かに影響されて、あるいは対抗して偉大な潮流は生まれる。

そして、その新たな潮流も、さらに新しい別の潮流の礎になる。

 

 

時に刺激し合い、時には否定し合い、苦闘を繰り返した人類の叡智の結晶。

それが、今日我々が手にしている何不自由ない幸せな生活である。

 

 

そして、今もぼくらは、人類の偉大な歴史の通過点に立っている。

新たな時代を作り出す大きな濁流の中で、格闘している。

今日のぼくの努力は、いつかきっと、誰かの努力と合わさって、まだ見ぬ誰かの笑顔を作る。

 

 

ぼくが、そう確信できるのは、歴史がぼくにそう教えてくれているからだ。

 

 

 

議論は喧嘩ではない。

憎しみ合い、殺し合うことが目的ではない。

対立構造の中から、より真理へ近づくためのプロセスでしかない。

我々が、より正しいもの、よりよいものに近づくための努力の過程である。

 

 

 

ぼくらは、そんな簡単なことでさえ、時々忘れてしまう。

 

 

 

今日も、SNS上では、不毛な罵り合いが繰り広げられている。

意見の対立は人類を進歩させたが、リスペクトのないディスりが、ぼくらを幸せにすることはない。

そんな当たり前のことを心の底から理解するために、ぼくらは巨人の肩に乗らなければならないのである。