うえにょっき

噺はまくらが一番大事

イギリス旅行記〜全体総括〜

3/8から3/14にかけてイギリスに行って来た。

3/8の朝に羽田から北京を経由してイギリスに行った

3/8にロンドンに到着し、ロンドン観光。

3/9はオックスフォード訪問。

3/10はストーンヘンジやバースを中心にツアーに参加。

3/11にリバプールへ旅立ち、リバプール観光泊。

3/12にエディンバラに立ち、エディンバラからロンドンへ夜行列車で帰る。

3/13にロンドン観光からの飛行機に乗って、

3/14に羽田着。

 

端的に言って詰め込み過ぎた。

やりすぎ。

特にエディンバラは時間がなさすぎて幾つかの主要スポットに行きそびれた。

長くなりすぎるので、それぞれの場所ごとに記事を分ける。

 

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気づいたことまとめ

 

ロンドン編

www.ueniki.jp

・イギリスのご飯は美味しい。ただ、ほとんどの食事は、同じものを作らせた時、もっと美味しく作れる国は多い。

・フィッシュ&チップスは脂っこすぎる。

・イギリス人は紅茶を飲みまくってるわけではない。むしろコーヒーの方をよく飲む。

・物価高い。感覚的には日本の1.1〜1.3程度。

・ロンドンの歩行者は信号を守らない。

・道路は綺麗ではない

・英語の発音が汚い。

・電車の車両とホームが小さい。その分、電車の本数が多い。

・ハリーポッター推し。9と3/4番線はない。

・英国紳士は大和撫子と同じくみんなの心の中にしかいな

 

 

オックスフォード編

・カレッジ集まってデカい街を形成している。

・日用品からブランドの服までなんでも買える。完全に大きい街。

・学生に何かを訪ねても、自分が所属してないカレッジ以外のことは知らない人が多い。

・観光客が入れる建物は限られているが、それぞれが面白い。

・建物一個一個がハリーポッターに出てきそう。

・往復のチケットを買うとかなり安いが、行き帰りの2枚出てくるので注意。片方のチケットを落とすとお財布へのダメージがデカい。

 

ストーンヘンジ編

・割と近くで観れる。

・デカい石。

・観光客用の音声ガイドがオタク向け。情報量が多すぎて処理しきれない。

 

 

リバプール編

・スラム街多し。今回行ったなかでは、一番治安が悪そう。

・ただただビートルズ推し。それ以外何もないといえばない。

・若い人が少ない。産業という産業もないイメージなので、出稼ぎに行っているのかもしれない。

・海はエモいな大きいな。

・Airbnbで泊まった家のサボテンの鉢植えを倒してはいけない。

 

 

エディンバラ編

・コンパクトに見るべきものがまとまってる。

・街並み全体が古くて美しい。

・英語の発音がきれい。移民の多さ?

・エディンバラ城の開城時間は、季節によって違うので注意。

・スコッチウイスキーは美味しい。薫り高い。お値段も高いが、ウイスキーが嫌いでも舐める価値はある。

・eteaketという紅茶のお店がめっちゃ美味しい。安い。すごく有名で評価も高いらしい。

・夜行列車の座席は寒い。お金がある人は、寝台に挑戦してほしい。

僕が研究生活から学んだこと

僕の大学院生活も大詰めを迎えている。

 

もちろん修論執筆中&プレゼン製作中であるが、3年間の苦しい修行の甲斐あってか思っていた以上にスムーズに進んでいる。

気分転換に僕が研究(生活)から学んだことを整理してみたい。

こんな感じで、この2~3ヶ月は振り返り多目でいこうと思う。

 

 

今回は3つ。

 

1. 将来師匠を越えたければ、何か1つの能力でもいいから若き日に師匠を超えなければならない。

 

あなたが将来、師匠の現在の年齢になった時に、現在の師匠と同じ能力を身につけていたのでは遅い。

世の中は日々進歩しているのだ。

例えば、あなたが15年後、師匠の現在の年齢である40歳になった時、師匠の40歳時の能力を身につけていても仕方がない。

時代は変わり、もうその能力は古びてしまっている。

しかも、その頃には師匠も進化している。

これでは、まさにアキレスと亀みたいに永遠に追いつけない。

 

また、若い時の方が、明らかに学習効率が高く、新しいスキルや能力を身につけるには適している。

越えるなら今しかない。

いつか越えたいなぁと思っているのではダメだ。

 

 

では、その分野の第一人者である師匠が今持っていない能力として、あなたはどんな能力を身につければいいか。

そこが、あなたの戦略性と独創性が試されているところだ。

そして、その選択があなたのその後の人生を大きく左右する。

 

 

しかも、 現代は新しい能力が次々と要求される時代だ。

 

 

研究の話を例に取ろう。

昔の研究者ならば、1つ特別な能力を身につけてそれが当たれば、20年は食っていけた。

でも今は違う。

一流の先達が持っていない能力を1つ身につけたところで、5年で古びてしまう。

短ければ2~3年のスパンで、長くとも5~6年のスパンでは自分の能力を棚卸し、今の自分の市場価値を見極めなければならない。

そして、また新しい能力を身につける努力をしなければならない。

厳しい時代だ。

こんなに次々と新しい能力が求められる時代には、ほんの一部の天才を除いて、1つの組織、1つの分野にとどまっていたのでは、難しい気がする。

凡人は座してコツコツ新しいことを勉強するよりも、コロコロと環境を変え、付き合う人間を変えた方が、簡単にどんどん新しい能力が身につく気がする。

まあこの辺の成長戦略の話は長くなるのでまたの機会にしよう。

 

 

さらに、この学び1には実はもう1つ大きな理由がある。

 

それは、

一流は、若き日に一流に見出されて初めて一流になれる

というものだ。

 

どんな一流も、一流に見出され、育てられて一流になる。

誰にも育てられずに一流になったように見える人もいるかもしれないが、そんな人も必ず他の先達から刺激を受け、背中をみて育ってきた。

一流と付き合い、一流に揉まれて来たはずだ。

そして、一流が、こいつに何かを教えてあげたい、こいつと付き合いたいと思うのは、

自分を越える何か、こいつすげぇなwと素直に思う何かを持っている人間だけだ。

 

すなわち、

一流になるためには、一流に見出されなければならず、

一流に見出されるためには、一流を越える何かを既に持っていなければならない。

 

 

 

 

2. 結果は準備でほとんど決まる

 

あなたが、スポーツの試合や営業のプレゼンに臨む時、最も大切にしていることはなんだろうか。

僕にとってそれは準備だ。

サッカーの試合に出る時、練習で出来なかったプレーが突然できるようになるだろうか。

できるわけがない。

たかだか90分やそこらのサッカーの試合中に爆発的に成長するのはマンガの主人公だけだ。

本番では、あなたが日頃から当たり前のようにできていることしかできない。

これは、サッカーの試合だろうが、コンペのプレゼンだろうが、受験だろうがなんでも同じだ。

 

 

当たり前じゃないかと思った人もいるだろう。

いや、むしろ多くの人がお前に言われるほどのことでもないと思っただろう。

確かに、一流のスポーツ選手なんかはみんな口を揃えて準備が大事だ言っている。

イチローや本田圭佑は何度も何度も繰り返し述べている。

 

 

しかし、実はこれは、研究、あるいはもっと広く「検証」といえるすべての行動にも同様に当てはまる。

 

あなたの研究者としての資質はどこに現れるのだろうか。

 

 

最新のデータ解析技術を身につけていることだろうか。

結果を論文にまとめ上げる力だろうか。

いや、違う。絶対に。

 

 

どんなに最新のデータ解析技術を持っていようと、出てきたデータがイケてなければ、そんなものはなんの役にも立たない。

この場合のデータがイケてないとは、ノイズが大きいことだけではない。(そんなのはレベルの低い話)

 

 

あなたが行った実験で得られたデータは、本当にあなたが言いたかったことをサポートしているだろうか。

あなたが主張したいことが、「植物は強い光を当てればよく育つ」のように単純なものなら話は簡単だ。

しかし、だいたいの場合、あなたの言いたいことはもうちょっと複雑なはずである。

1つの実験だけですまない場合も多いだろう。

数十個ということは珍しいだろうが、5、6個になったりすることはざらにあるだろう。

あなたの一連の実験は、まとめて見た時に、論理的に厳密にあなたの主張を裏付けるように設計されているだろうか。

実は、これが一番難しいのだ。

 

 

どんなにイケてるデータ解析技術も、行った実験があなたの言いたい主張を裏付ける形になっていなければ、意味をなさない。

論理を曲げることはできないのだ。

データを見た後に、

あれ?そもそもこんなデータじゃ思っていたように解析して、思っていたようにまとめられなくない?

と思っても遅い。

研究者が実験の結果が出た後からできることは想像よりも遥かに少ない。

事前に計画した通りにデータを取ったら、事前に計画した通りの解析を施すだけ。

一度出てしまった結果を後から歪める魔法の杖も錬金術も存在しないのだ。

 

 

あなたのリソースは限られている。

お金も時間も。

できるだけ少ない回数の検証で、あなたは自分の主張したいことをクリアに言い切ることができるプロセスを練りきらなければならない。

 

期限がある場合も多いだろう。

大学院在籍期間、ポストの任期、プロジェクトの期間。

一回の検証にかかる時間と期限を照らし合わせれば、自ずと行える検証の回数は限られてくる。

その中であなたは、全くの過不足なくあなたの主張を裏付けることができるだろうか。

知りたかったことを知ることができるだろうか。

 

 

うかつに始めてはならない。

入念な準備と計画。

これがすべてだ。

 

 

そして、僕らはみな人生の研究者である。

お金儲けのための試行・検証プロセスはもちろん、勉強、恋愛、体調管理、美味しいお店の探索からうざいセンパイの交わし方に至るまで、

僕らは毎日何かしらの検証を行い、改善をして生きている。

 

毎日をうかつに始めてしまってはいい検証はできない。

いい検証のないところに進歩はない。

 

 

 

 

3. 思考するとは身体的行動である

 

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」

という言葉がある。

これは、原文の一部だけが訳されて広まったものらしいが、現代の解釈は、

健全な精神は健全な身体にしか宿らない(そのままやないかーい)

身体が健全でなければ、精神は健全ではなくなる(対偶とっただけ)

というということだ………

 

もとになった言葉を言ったユウェナリスなる人が本当は何を言いたかったかなんてことはどうでもいい。

僕が主張したいのはまさにこの現代的解釈がいかに正しいかということだ。

 

 

僕は大学4年生で研究室に配属されてから大学院2年生の今まで、非常に規則正しい生活を送ってきた。

そして、毎日進捗を生まなければならないプレッシャーに襲われて戦ってきた。

毎日毎日深く考え、自分の思考と向き合ってきた。

 

そんな毎日でも、必ずしも調子のいい時ばかりではない。

どんな時にぼくは調子がよく、どんな時に調子が悪いのか。

毎日、自分の思考の調子を観察する中で、その規則性に気がついた。

(毎日、就寝・起床時間、食事、および主観的な体と頭の調子を記録している。最近メンタルヘルスも記録し始めた。)

 明らかに体調のいい日は思考の調子もいいのだ。

当たり前といえば、当たり前だが、日々経過を観察していて確信を持った。

 

 

そして、生活のリズムがよければ、思考のリズムもまた同様にいい。

身体が朝からスムーズに動く時、寝起きにすっと起き上がれる時は、思考も朝からリズミカルだ。

 

日々思考を進め、昨日よりも今日、深い省察に入って行きたいのであれば、自分のリズムをつかむ必要がある。

漸進したければ、日々リズムよく思考しなければならない。

そして、リズムよく思考したければ、生活リズムを整えるしかない。

思考は身体的なのだ。

 

思考するのは脳である。

しかし、我々の思考は恐ろしいほどに身体に縛られている。

見るもの、触れるもの、匂うもの、聞くもの。

この手足、この家、この道、この職場。

これらすべては身体を通して僕の思考を規定している。

身長175 cm、体重65 kg(普通ですいません)のこの身体でなければ僕の思考はまた少し違っていたはずだ。

 

 

思考パターンを変えたければ、身体を変え、環境を変えなければいけない。

最も簡単なのは生活リズムを変えることだ。

簡単ではないが、住む場所や付き合う人を変えてもいい。

気持ちを新たにしたところで、思考の癖やリズム、パターンは変わらない。

 

 

僕は新年の誓いの類は立てないが、そういった誓いを立てたがる人もいる。

でも、彼、彼女の多くが、その誓を果たすことはない。

当たり前だ。

思考パターンが変わっていないのだから。

昨年と同じ思考では、昨年した失敗はまた繰り返されるだけだ。

まずは起きる時間、寝る時間を変えてみる。

生活のリズムや食べるもの変える。

運動をする。

これらで驚くほどに思考は変わっていく。

思考するとは身体的な行動なのだから。

 

 

今日はこのへんで。

 

 

 

 

『中国の論理』感想

 

中国の論理 - 歴史から解き明かす (中公新書)

中国の論理 - 歴史から解き明かす (中公新書)

 

 

副題の通り、中国の人の考え方を、歴史的経緯から捉えた良書である。

古代から現代まで、その時代時代ごとの「中国の論理」を解き明かし、「中国の歴史」と「中国の論理」の相互作用を丁寧に追っていく。

 

 

特に、近代、清朝の崩壊から革命の時代への変遷に関する記述が面白かった。

圧巻だったのは、

二十世紀初頭の「言論界の寵児」にのし上がった梁啓超が、日本亡命後に「思想が一変した」と述べている部分の解説だ。

 

 

梁啓超の師は、日清戦争後、政治制度の西洋化「戊戌の変法」を企てた康有為である。

「戊戌の変法」の運動の中で、梁も康も、保守派による「戊戌の政変」で、日本への亡命を余儀なくされる。

この政変を主導したのは、悪名高き西太后・袁世凱らである。

 

しかし、梁啓超の日本への亡命が、のちの中国の命運を大きく変えることになる。

この経験が、梁啓超を中国最初にして最大のジャーナリストへと変貌させるからだ。

 

 

 

梁啓超は自伝で、

戊戌九月、日本にやって来た。東京で一年間住み、少し日本語が読めるようになったことで、思想が一変した。

と述べている。

「日本」だけではなく、「日本語」だった点が重要だ。

 

 

当時は日本も「文明開化」「明治維新」の時代。

日本はいわゆる「文明開化」によって、おびただしい翻訳漢語・和製英語をつくった。(p.164)

 

そうした訳業の中から、「文明開化」の日本語ができあがってゆく。(p.165)

 

「文明開化」の日本語の文体を手に入れた梁啓超は、その文体を漢語に応用していく。

この清新でニュートラルな文体が駆使しされた梁啓超の文章が、当時の中国の知識人の思想をも一変させることになるのだ。

 

 

今の日本人にはイメージがしづらいだろう。

だが、梁啓超が活躍するまでは、中国で「文章が美しい」といえば、古典に依拠しなければならなかった。

すなわち、二十世紀までの漢語は、語彙・概念、文体・論理すべてが古典によってがんじがらめにされていた。

戊戌の変法も所詮、西洋風の改革に儒教の教えを強引に合わせて、改革を正当化するものだった。

いわば当時の儒教至上主義の中国人に無理がないように、改革の論理をこじつけるしかなかったのだ。

これが二十世紀までの「中国の論理」である。

この「中国の論理」では、西洋の考え方を、直接理解することはかなわない。

ここにそれまでの中国の改革の限界があった。

 

 

 

梁啓超の「新しい文体」を手に入れたことで、中国の知識人たちは、

「外夷」のカテゴリーに押し込まれた西洋の事物は、そんな尊卑・褒貶の拘束から解き放たれて、言語上の直訳と知識上の直輸入が可能となり、漢語で直截に表現、伝達、了解できるようになった。

梁啓超の「新しい文体」が、国内で熱狂をもって迎えられたことで、以後中国は革命の時代へと突入していくことになのだ。

 

 

 

このようにして革命の時代を経た中国が、今の「中華思想」をどのように取り戻すのかは、読んでみてのお楽しみである。笑

 

 

 

以下、感想

この記述を読んで、かなり衝撃を受けた。

文体がそこまで思想に影響を与えるとは考えても見なかったからだ。

確かに、私も日本語を駆使する日本人である以上、日本語の文体に規定された思考をしているはずである。

話し方・書き方は、論理の展開の仕方と密接に関わっている。

すなわち、日本語で美しいとされる話し方・書き方によって、私たち日本人の論理展開の仕方は制限されているに違いない。

そんなことは薄々分かっていたつもりだった。

しかし、そこまで、大きな影響を持つものだとは思ってもみなかった。

 

異なる言語を話す集団間では、そもそも思考の進め方、頭の使い方が根本的に違うかもしれないということである。

文体は文化に影響をうけ、かつ、文体は文化にも影響を与えるものなのか。

他国語が話せても、その国の人の思考を完全には理解できないことの一因はここにもあるかもしれない。

言語を操るとはどういうことか、他文化理解とはどういうことか深く考えさせられた。

『街場の現代思想』感想

 

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

 

 

 

冬は、「ウチダ」の季節だと思っている。 

内田樹の思想は、鋭くも温かい。

冷たい風が吹き向ける季節に現れた焚き火のようだ。

この本の中でも特、に冒頭の章の「文化資本主義の時代」への考察は非常に鋭い。

 

 

ウチダは、日本が「文化資本」によって階層化された社会になること憂いている。

日本社会はどんどん「文化資本」によって階層化されているらしい。(ここでは、それは認めてしまおう。)

『街場の現代思想』の第一章『文化資本主義の時代』では、

「文化資本」によって階層化された社会の出現を阻むための戦略が論じられている。

 

 

まず、文化資本とは何か。

文化資本とは、「家庭」において獲得された趣味や教養やマナーと、「学校」において学習して獲得された知識、技能、感性の二種類がある。(p.22)

 

前者は、育つ過程で勝手に「身についてしまっていた」という意味で、これは「身体化された文化資本」と呼ばれる。

あえて言わずともお分かりだろうが、限られた階層に生まれ育った人にしか「身体化された文化資本」を手に入れることはできない。

いわゆる「お育ちのいい人」だけが「文化資本」を身体化できる。

これが、文化資本の格差である。

 

文化資本が「気がついたら、身についていなかった」人は、もう「身体化された文化資本」を身につけることはできない。

なぜなら、「生まれつきの文化貴族」になるために努力する行動そのものが、「ビンボうくさ」く「不純」だからだ。

そんな風に必死になって文化資本を身につけたものは、「生まれつきの文化貴族」が持つ余裕を持つことができない。

余裕のない「文化資本」は、身体かされているとはとても言えない。

 

ここに文化資本の逆説がうまれる。

「文化資本を獲得するために努力する」という身振りそのものが、文化資本の遍在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまう。(p.34)

すなわち、「努力したら負け」というルールが既に闘いの中に構造化されているのである。

 

このように「文化資本」によって階層化された社会は、固定化された社会だ。

年収や学歴(ある程度文化資本力と相関はあるが)によって階層化された社会よりも遥かに逆転が起こりにくく、流動性が低い。

 

 

果たして「文化資本」によって階層化された社会は心地がよいだろうか。

よいわけがないというのが第一章『文化資本主義の時代』の問題意識だ。

 

 

内田は続ける。

そもそも、文化を「資本」と位置づける人間はすでに中流であると。

文化を「資本」として、社会で使えるものと定義することがすでに嫌らしい。

中流は、ただ卑しいだけではない。

「文化貴族」になりたくてもなれない中流が何をするか。

自分たちほどに文化資本を獲得できなかった人間を見下す。

それと同時に、自分より下の人間たちを足蹴にし、排除することで自身の相対的上位を固定的に確保しようと望む。

この世で一番始末に終えないのは、「上昇志向があって、それが満たされない人間」である。(p.40)

このように、中流は、上流になろうと努力する点で運動的であり、

同時に、下流を下流に押しとどめようとする点で停滞的である。

 

  

しかし、ウチダは、中流 = プチ文化資本家に日本人みながなることを望んでいるのだ。

それがウチダの「一億総プチ文化資本家」戦略である。

なぜなら、逆説的にそれが文化資本による階層社会の出現を先送りすることに繋がるからだ。

(いつだってウチダ論は逆説に溢れている。)

 

 

 

順序はこうだ。

日本は明らかに文化資本によって階層化された社会になりつつある。

そのことに自身で気がつく、あるいはウチダらに気づかされるものがいる。

彼らは、文化の価値を(初めは資本として)評価し、文化資本を手に入れようと必死で努力する。

そして、決して自分が「文化貴族」になれないことに気がつき、自分より下のものを見下す。

と、同時に、自分より下の人間たちを排除し、自身の相対的上位を固定化しようとする。

中流の出現によって、社会は、上・中・下流に階層化し固定される。

 

だが、話はここで終わらない。

彼ら中流は、文化資本を獲得することで、文化資本の差で人を見下すことがいかに醜いかに気がつく。

文化資本を手に入れることで「文化を資本として利用しようとする発想そのもの」の浅はかさに気がつく。

それが文化・教養だからだ。

教養の多寡によって人を見下すというさもしいまねは、己の教養によって邪魔される。

「プチ文化資本家」は、文化資本によって階層化されたさもしい社会を憎む。

結果的に、日本人がみな中流 = 「プチ文化資本家」になれば、文化資本による階層社会の出現を先送りすることができる。

 

 

これは、文化が持つ特長によるものだと言える。

一方で、文化資本によって完全に階層化された社会ではこうはいかない。

下流は文化にアクセスする手段を持たない。

さらにいえば、教養がないために、下流は、自分が階層社会の下流にいることに気がつかない。

上流は、下流は見下しもしないし、そもそも下流の存在にすら気がついかない。

ウチダが恐れるのは、この状態である。

 

  

 

ウチダが文化資本によって階層化された社会の危険性を唱えるのは、日本人をみな「プチ文化資本家」にするためである。

人々を煽り、中流へと急がせることで、結果的に文化資本による階層社会の出現を妨げることができるからだ。

これが、「一億総プチ文化資本家」戦略の真の戦略的意味である。

私たちは、気がつけば内田の術中にハマっている。

(ウチダ流にいうなら、先回りされている。)

これが、内田樹のテキスト戦略である。

私が、ウチダを尊敬するのはこの巧みさゆえだ。

 

『TPPがビジネス、暮らしをこう変える』感想

 

TPPがビジネス、暮らしをこう変える

TPPがビジネス、暮らしをこう変える

 

 TPPについて非常に簡潔にまとまった本。

その他の評価の高いTPP本でも同様だが、一番の問題は、アメリカがTPPを抜ける前に書かれていること。

アメリカほどの巨人が参加するかしないかは、(当たり前だが)経済的にインパクトの大きさが非常に異なり、本で触れられている内容もかなり変わってくる。

とはいえ、アメリカなしのTPP11も、アメリカが積極的に推し進めていた項目を凍結とし、締結に向けて合意が進んでいるようである。

凍結とは、アメリカが参加するまでの保留事項程度の意味だ。アメリカが参加すれば解凍される。

アメリカが撤退を表明した当初は、かなりの項目が凍結されることが懸念されたが、17年11月の大筋合意では、20項目とまずまず抑えられている。

そのため、アメリカが抜けた現在でも非常に参考にはなる内容である。

 

 

以下、TPP周りで気がついた、勉強になったこと。

  • 中国に先んじて統一ルールを作ることが日米の狙いだった。
  • ルールベースの貿易協定や経済連携協定は、政情の不安定さに対して頑健である。そのため、長期で見ると経済的な安定が保たれる。
  • TPP域外との輸出入が多いものはTPPがあろうとなかろうと関係ない。
  • 2国間協議では、パワーバランスに左右されがち。その点、これまでアメリカがルールベースの地域協定を進めてきたことは、ある意味では評価できる。もちろん、2国間協議はめんどくさく、多国間協定を自国の好きなようにできる方がコスパがいいという考えもあるだろうが。

『エクサスケールの衝撃 』(抜粋版) 感想

日本人が書いた本で、ここ数年話題の未来予測本といえば『エクサスケールの衝撃』だろう。

 

エクサスケールの衝撃

エクサスケールの衝撃

 

 

非常に長い本だが、最近、抜粋版も出て大変読みやすくなった。

私は、原本がさすがに長すぎると思ったので抜粋版を読んだ。

 

『エクサスケールの衝撃』抜粋版  プレ・シンギュラリティ  人工知能とスパコンによる社会的特異点が迫る

『エクサスケールの衝撃』抜粋版 プレ・シンギュラリティ 人工知能とスパコンによる社会的特異点が迫る

 

 

筆者の主張を簡単に要約すると、

「2020年代には、スーパーコンピューターの性能が1エクサフロップスを越え、その時点(プレ・シンギラリティ)から人類は異次元の社会変革に巻き込まれる。

その社会変革は、一歩間違えれば人類を崩壊させかねないため、我々は、プレ・シンギラリティに備えて入念な準備をしておく必要がある。
我々日本人が一番初めに次世代スーパーコンピューターを作り出すべきである。」

 

ということになるだろう。

 

以下、感想。

私が読んだ抜粋版の方には、文章内に引用元が書かれていないし、参考文献も挙がっていない。

この手の本で、引用元が書かれていないのをよく見かけるが非常に不便である。

引用元が書かれていない本は信用できないとまでは言う気はないが、

筆者の書いてあることについてより詳しく調べようと思ってもできないので、大変困る。

筆者の思考のスケールの大きさを否定するわけでは全くないが、科学者が書く本にしては、不親切ではないだろうか。

 

筆者は、リスクを取って、自らの手で「エクサスケールの衝撃」を実現するため行動している。

 

news.mynavi.jp

 

その点、ただ適当な未来予測をして、無駄に大衆を煽っているのとは違うとは感じる。

筆者は、本気でプレ・シンギラリティ後の世界を案じているのだ。

 

ただ、本書の後半の主張は、エネルギーコストがほとんどゼロになるという前半の主張に拠りすぎている気がする。

小型核融合施設を始めとする、いくつかの新時代のエネルギー技術がいつ実用化できるかで、その後のシナリオが変わりすぎるのだ。

そこは、少し筆者の主張の弱さを感じた。

 

また、注意をしなければいけないのは、筆者が、「プレ・シンギラリティ」を越えたその瞬間に世界が劇的に変わると言っているわけではない点だ。

シンギラリティ同様、筆者のいう「プレ・シンギラリティ」も、その時点そのものが世界を変えるという誤解を与える。

スパコンにしても、AIにしても、プレ・シンギラリティやシンギラリティを越えた後も世界は変わり続ける。

世界の変化の速度が大きく加速される転換点であると言っているに過ぎない。

 

 

さらに、文句をつけるのならば、筆者のいう「我々日本人が次世代スーパーコンピュータを実現する」(終章名)べき理由が全く理解できない。

筆者の主張では、

日本人は高い道徳心を持ち合わせており、利他の精神に富んでいるため、次世代スーパーコンピュータによる社会変革の利益を人類のために使用できる

ということになるだろう。

しかし、日本人は道徳心が高いなんて誰が決めたのだろうか。

なぜ、そんな根拠もない話を持ち出すのだろうか。

 

「筆者は日本を愛しているために、日本経済がこれからも発展して、日本の人々が幸せになってくれれば嬉しい。

そのためには、日本がいち早く次世代スーパーコンピュータを開発し、世界に先んじて社会変革の利益を得なければならない。

その際、その利益を軍事利用などするのではなく、人類全体の幸福のために使おう!」

 

というので、なぜダメなのだろうか。

日本を愛するのも、日本に発展して欲しいと願うのも自由のはずだ。

純粋な願望ではなぜダメなのだろう。

謎の日本人が優れている論を持ち出す必要がどこにあるのだろうか。

その点はさっぱり分からなかった。

 

 

全般には、非常に刺激的な内容だった。

私は、バリデーションのできないモデルに基づくシュミレーションは好きではない。

同様に、「未来予測本」があまり好きではない。

未来とシュミレーション結果のズレを繰り返し検証し、予測モデルを改善することができないからだ。

しかし、この本は読んでよかったと素直に思える。

この本は、ただの未来予測本では決してないからだ。

最新テクノロジーが非常に分かりやすく紹介されており、心の底からワクワクする内容だった。

僕がブログを書く理由

ある日僕は衝撃を受けた。

(確か1950年頃の)古い論文を読んでいるときにこんな記述を見つけたからだ。

…P value (Fisher, 1936)……

 

詳細はさて置き、P value(P値)とは、ある科学的操作を行ったことが、実際に効果を及ぼすのか(この肥料を与えた植物は与えなかった植物と比較して大きく育つのか、など)を統計的に判断するための指標である。

現在では、P値を論文中で使用するときに、P値の有用性を示した近代統計学の父Ronald A. Fisherの元論文を引用する科学者はまずいない。

なぜなら、誰でも知っているからだ。

 

では、なぜ僕が読んだ論文は、P値にきちんと引用を書いていたのだろう。

そう、1950年当時はまだ、P値は「常識」ではなかったからだ。

 

 

今「当たり前」のことも、「当たり前」ではない時代があった。

そんな当然のことに僕は衝撃を受けた。

きっと、今日最先端のことも、いつかは「当たり前」になる日が来るのだろう。

それどころか、今この瞬間には誰か1人の頭の中にしかないことが、将来「当たり前」になっているかもしれない。

そうやって人類は進歩してきたのだ。

 

ちなみに、P値も今や批判に晒されている。

P値は、有用な統計的基準として科学界に長らく君臨してきた。

しかし、科学者たちは、P値では、必ずしも科学的真実に近づけないことに気がつき、P値偏重の時代に別れを告げようとしつつある。

P値の時代もいつか終わるのだ。必ず。

そして、また新たな智が生まれる。

 

 

大袈裟かもしれないが、僕はそんな人類の叡智の積み重ねに打ちのめされた。

スゴイぞ、人類!凄すぎるぞ!!!!

 

 

そんな考えに夢中になっていて、僕はふと閃いた。

 

「おれが日頃考えていることも、記録しなければ。」

 

どんな知識も、表現し、記録されなければ消えて無くなってしまう。

僕が考えた下らないあんなことやこんなことも、記録されなければ僕が死んだらなかったことになってしまうのだ。

 

 

僕は、決して面白い人間でも、人に伝えるべき独創的な思想を持った人間でもない。

だが、そんなことは本質的には関係ない。

 

なぜなら、僕のこの世界、すなわち僕の人生を含む森羅万象に対する解釈は、僕がいなかったら絶対に存在しなかったものだからだ。

この世界に、僕と同じように生まれ、飯を食い、クソをして、学び、考え、悩み、苦しみ、喜び、楽しんできた人間は誰1人としていない。

すなわち、僕と全く同じように考える人間など絶対に存在し得ない。

 

 

 

さらに、智は、批判可能な開かれたものとして表現されなければならない。

なぜなら、僕が表現したことが、僕自身、あるいは他の誰かに否定される、そして僕はまた新たなことを考えて表現する、それもまた誰かに否定される………、そんな対話的運動の中にしか僕らが求める「真理」は存在しないからだ。

それは、僕自身が、あるいは人類がこれまで行ってきたことに他ならない。

僕のクソみたいな思想も、人々の生活の役に立つ科学も、その点において本質的には何も変わらない。

 

 

 

 

人は誰しも、その人だけのあり方で世界に語りかけられる。

あなたは、一瞬一瞬、世界から個人的な「メッセージ」を受け取っている。

そして、その「メッセージ」に対するあなたの解釈は、次の瞬間には世界によって否定される。

世界は、あなたに解釈を求めつつ、一義的な定義を否定するものとしてそこに存在しているからだ。

あなたは生まれたその瞬間から、その対話的な関係に放り込まれたのである。

その運動の中で、あなたは、自分の世界理解をついうっかり語ってしまう。

それが誰にでも通用する、絶対的な真理などではないことを知りながら。

そして、人々の唯一無二の解釈の数々が、固有な相として、この世界の豊かなカタチを成す。

世界は、互いに他を否定し合う無数の解釈の対話的運動の中にのみ存在している。

 

 

 

 

世界は僕に呼びかける。

僕は世界の声を聞く。

僕は、世界から「そこの、君。ちょっとこっちへいらっしゃい」という個人的召喚を受けてこの世界に生まれてきた。

そういえば、ママのお腹の中でそんな声を聞いた気がする。(純度100%の大ウソだ 笑)

 

世界は、僕の眼前に圧倒的な謎を突きつけ、考え、解釈することを要求する。

絶望的なまでに恐ろしく、邪悪なまでに甘美なこの「他者」を前に、僕は泣き叫び逃げ出したくなる。

この「他者」を知ることなど、僕には決してできない。

たが、僕と、僕自身を含むこの「他者」との対話が終わることはない。

僕は、この世界に対する唯一無二の解釈を施す者として、この世界に「呼び止められた」のだから。